03.07/18 「放送大学っていいね。」

なんだかもう。。。wwwww
昔の文章だから。。。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
言葉の使い方とか凄い変だし。。。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
大目に見ていただければ。。。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww



いまさらだけど、インターネットの公平性を説くならば、それは、こちらからの能動的な働きかけによってこちら側に押し寄せてくる情報がさまざまに変化してくるところにあると思います。
それは、こちらからの志向的な意識の投げかけによって、どのような意味にでもなるといった感じです。
それは、倫理学者のHPとネクロフィリアのHPと宗教家のHPと幼児虐待映像の愛好家のHPと科学者のHPと風俗嬢のHPと哲学者のHPとが、まったくおんなじ価値観の上に並んでいるということです。
何を判断するかはまったく本人の働きかけ次第で、まさに、自分自身の倫理観を試すには絶好の場所です。 そして、なぜ公平なのかというと、そこには外側から規定されたルールが少ないってことです。(残念だけど少しだけルールが持ち込まれている) ってことは、それぞれの人がそれぞれの人のうちで、インターネット上をどのように生きていくのが適切なのかといった倫理観を勝ち取っていくチャンスがあるということです。
それは同時に反倫理的・反道徳的なものの是認にもつながり、倫理観を鍛え上げるための場としては最適でしょう。
できれば、(ガーディアンエンジェルスじゃないけれど・・・)誰かの恣意的な意識的な力で、勝ち取られるべき倫理観を統制したり規定したりはしないでほしいです・・・。

ってことで、そうした”こちらからの志向的な意識の働きかけで、覆い隠されていた部分が明るみに出される”って感じは、放送大学にもあります。
そこで行なわれている授業とは、まったくのオンデマンドで、こちらからの働きかけが無ければまったく成立しないのです。 今回僕が学校で受けているように、”教師が私たちの外側に立って私たちを規定していく”といったやり方とはまったく違うのです。 
哲学の概念の一番下の部分には”自分自身で考えること”が来ると思います。 
それは、外側に想定された理論や論理や観念や思想や”ある理想状態”に自らを同一視したり、それを強く行為呈したり、それに屈服したりといったことではなく、あくまで、自分自身で何を掴み取るのか?ということなのです。
そういう意味で、放送大学のオンデマンド性って面白いと思います。
実は、9月から放送大学の講座で「現象学入門」が始まります。無料で聞けるし、15日間短期集中型で放送されるし、楽しみだなぁ~。 でもラジオなんだよなぁ~。 どうやって録音しようかな。やっぱりテープに落とすしかないのかなぁ。



”意識の志向的な働きかけ”っていうニュアンスは、平沢進の歌詞の中にも読み取ることができます。 それは、平沢の「祖父なる風」という曲の中にあります。

要約・・・
僕たちの身体の周りには完全なる「認知の風」(客観化・多重化され、実在化した”意味”)が取り巻いちゃっていて「宝殿」(*明証性の根っこの部分。ビールを飲んだときにおいしく感じたりまずく感じたりする、その”感じ”の部分。)への道が覆いをかぶされて閉ざされてしまっています。
そして、私たちの日常は「認知の風」によって規定されてしまっていて、”配給の運命”に従って生きていくのみです。
なので、私たちは認知のゆえんになっているような「宝殿」を掘り起こすために、勇敢にも「正気の声」(”感じ”の部分からの呼び声)に耳を傾け、「正気の谷」を下ります。(「認知の風」をそのゆえんへと還元していく)
そのためには、こちらかの志向的な意識(志向性=私の外側に意識内容が”そうしたもの”としてお皿の上に盛られているのではなくて、こちらからの働きかけによって意識内容が成立するって感じ)である「祖父なる風」を吹かして、「認知の風」に対して「ありえぬ!」と謎を暴き、実在的な意味を実存的な意味へと転換して、人間的な「威厳に街を染め」ようって感じです。

さて、この歌詞の中にはいろんなヒントが封じ込まれています。 そのひとつとして、哲学と宗教の違いは何か?ということがあげられます。
宗教の原理とは、われわれの中で勝ち取られていった倫理観や道徳観(平沢語を借りるなら「祖父なる風」で勝ち取られたもの)を初発のモチーフとしながらも、そうした”生きられた”倫理観や道徳観を客観化し、実在物と仕立て上げ(「認知の風」に仕立て上げ)、それによって私たちの生き方を規定させるということです。 そのためには、宗教と同一化し、それ自身に屈服しなければなりません。(「認知の風」が身体を取り巻いちゃっている感じです。) そのため、現実そのものとのずれが生じてきます。
哲学の原理とは、何か検証不可能な物語的なものを私たちの外側に想定するのではなく、抽象的な思考を使って、そのゆえん(生きられた場面=現実そのもの)を探り当てるところにあるのではないでしょうか? そのための技術が哲学になるのだと思う。

で、平沢の面白いところは、聞き手にそうした解釈をする余地を残しているってことです。(アンの言葉を借りると”想像する余地がある”って感じ)
でも、不穏なことに、彼自身の発言を聞いていると、ひょっとしたら何らかの理想状態を想定しているのかな?って感じる場面が多々あるのです。
本人自身、これはショーでユーモアだから、と前置きをしてからいろんな発言をしているので、なんともいえないのですが・・・。
いずれにしろ、未前提的未規定的な比喩と隠喩の世界を味わうのは楽しいです。
僕も早く機材をいじりたいです。
それでは。





なんだかもう。。。wwwww
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言葉の使い方とか凄い間違えてるし。。。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
大目に見ていただければ。。。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww