夢の方法。

H・P・ラヴクラフトの小説『未知なるカダスを夢に求めて』を読み終えました。

彼は夢の秘密を知っています。

その秘密とは論理のことであり、その論理とは1世紀ほどの昔から、ドイツあたりの合理性が記述しようと躍起になっていたものであり、日本人がなんとなく理解していたものです。

日常性という世界像は、こうした夢の秘密を“なかったもの”としたり、客観性のもとに理解してしまおうとします。

無意識は無である以上は意識されないし、意識されないという仕方で意識しなければ無意識とはいえないわけなのですが、日常性という世界像は不粋にも不合理な夢を理解しようとしてしまう。
無意識を意識出来るものと思いこんでしまうわけです。

日常のもつ重力は不合理を押し潰そうとしてしまう。

不合理が理解を被ると、不合理の不合理性は剥脱され、もはや不合理ではいられなくなってしまいます。
そうなると、外延的な形式は残るけど、質的な奥行きはなくなってしまいます。

つまり、意味がなくなってしまうのです。

荘厳なカダスに住まう地球の古い神々は、幼少期の淡い記憶の中に退散せざるを得なくなってしまいます。

そうしたわけで、不合理と日常を邂逅させる秘密の方法が必要になるのですが、この方法はそこそこの絶望とそこそこの諦念とそこそこの論理がなければ手に入れられないようです。

で。

ラヴクラフトはその方法を知っているみたいです。

おそらく、この小説は彼にとってのセルフヘルプ的なものであるでしょうし、僕らにとっては秘密の方法に触れる道標のようなものになるでしょう。



あーおもしろかった^^

今日はスッキリ眠れそうです。