屹立する世界。

世界は世界以外に世界しないし、それが世界のもっている特徴といえるでしょう。


それと同時に、僕たちには世界に彩りを与える能力があり、それは不在の神殿R'lyeh(ルルイエ)を夢見る能力であり(※参照:「ク神社。( http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/46610886.html)」)、
その能力はモニターの裏側を思い描く能力に由来します(※参照:「不在の現実。( http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/5329623.html)」)。


世界には世界以外に世界しないという特徴があり、僕たちにはその特徴に抗って、世界に意味を与えることで“こうありたい”と夢想することができます。


こうした、「世界のありのままを了解しながら、自分のありようを世界に投げ入れていく」という姿に、実存的な自由の由縁があるのかもしれません。


さて。


思い描かれた世界が成就せずに通り過ぎていくと、僕は意味に逸れることになる。
例えば、友人が思うように生きれないでいて、そのことに何もできないでいたり。
何かをしても良い結果を得られなかったり。
自分自身がうまくいかなかったり・・・。


こうした時、“こうなればいいなぁ”と展望を思い描いて、それに向かうんだけど、なかなか思い通りにはなれない。
もちろん、僕は主義者や思想家ではないから、世界を思い通りにしてやろうなんて腹積もりはこれっぽっちもないんだ

けど、それでも、僕の持っている思い描く能力はほとんど自動的に世界に意味を投げかけて、“世界よ!こうあれ!”と望んでします。


そうすると、実存的な苦痛を味わって、意味に逸れてしまいます。


そして僕は、「世界は世界以外に世界しない」という世界の無情さに眩暈を感じることになるのです。