渡すか地球を悪の手に。

先日、僕はお誕生日を迎えました。

そして、無事に32歳になりました。

人に人らしさがあるように、32歳には32歳らしさがあるように思えます。

それは、客観的に想定された価値評価に照らし合わせて、「32歳はかくあるべき」というような規範的なものではなく、もう少し緩やかな、「実存的に掴まれる経験の群れ」というようなものでしょう。
その人がその人の生きてきた経験を引き受けつつ次の生に自分を投げ入れるようなニュアンスです。
(ですので、まったく倫理的・道徳的な要請にしたがっての32歳らしさというわけではありません。)

それにしても“客観的”と呼ばれる観念の群れはやっかいなもので、すぐに現実から遊離してしまいます。

しかも、僕らはこの“客観的”を“真”として信じ込むように教育されています。

“客観的”として想定された観念の内側に捉えられるものが真実の現実で、もっと緩やかな実存的な生の現実は取るに足らないものだと教え込まれてしまっています。
さらにやっかいなことに、社会の中で生活していくということは、“客観的”として想定された観念の内側の出来事を信じることだと思い込まされてしまっています。

このようにして、生の現実は“客観的”という盲信の中に埋没してしまいます。

巨視的な目で見ると、こうした「“客観的”を信じるという出来事」は、一つのモード(流行)に過ぎないということがわかるのですが、このことを見抜く技術も“客観的”な観念の群れの中で廃れてしまっています。。。

社会の中で生活していると、時たま(っていうかしょっちゅうw)、“客観的”という観念の群れに操作されている人達に出会うことがあります。
そうした人達と人間的な関係を築くのはとても難しいし、一緒にいてもあまり創造的な出来事は起こらないので居心地は良くないのですが、そうした人達に限って、管理職的なポジションにいたりして、なんともやるせない気分にさせられます。
ってことは、社会的に成功するためには、“客観的”に想定された観念の群れを盲信する能力が必要になるんだろうなぁ・・・。

僕にはその能力がない。

ってことは、社会的に成功することはないだろう。
ってことは、お金持ちにはなれないのだろうなぁw

でも、ロシアの怪僧ラスプーチンはとても貧相な成りをしていたけど、女性にはもてたそうな・・・。

ってことは、お金持ちでなくても全然大丈夫だ。


鳥居みゆきもいるし。
戸川純もいるし。
三島だって太宰だってラヴクラフトだっているし。
なんだか全然大丈夫だ^^


ドトール仮面ライダーストロンガーの歌を何度も聞きながらぐったりしていますw
“みていろ電気のこの力”や“カーっと燃えるぜ 正義の心”という歌詞が良いと思いました。
ストロンガーは全体的にアシッドで好き^^
カメンライダーとタイプライターは似ているとも思いました。
江川達也の漫画版「仮面ライダーTheFirst」を読んで、げんなりとした気分になりました・・・せんとくん(通称・ぬる坊)を始めて見たときの気分になれる漫画です・・・ぬるすぎるwww



・・・それにしても“客観的”に対する盲信はやっかいなもので、僕自身も何が現実かを見抜く技術を保持し続けないと、簡単に“客観的”の虜になってしまいます。。。