未文。

H20年1月31日の文章。
書きかけ。
成立してない。
まぁ・・・なんていうか・・・。
とりあえず。。。
未文として・・・w


↓↓↓









ノートPCが起動できない・・・。

ノートPCのHDDには、僕が残したデータが残っています。

だがしかし、この履歴はノートPC上に復元できません。
ノートPCは起動できないので、データを閲覧する各種のプログラムが起動できません。
このデータは、ノートPCから抽出して、メインPC上でなら閲覧できます。

僕の現状もこのノートPC見たいなもので、決して充実しない予期が渦巻いています。


僕の実家は今度壊されるんですが、壊されてしまうと、僕の過去の履歴の中に埋まっている実家のイメージは、決して現実に充実されることが無くなってしまいます。
僕の家に対するイメージは、僕の履歴の中を浮遊することになってしまいます。


どうすれば、この浮遊するイメージをサルベージ出来るのでしょうか?


このイメージを抽出して、別の現実で充実させてあげる必要があります。

きっとその現実は、履歴にあるイメージとはぴったり一致しないとは思いますが、僕にとってはとても意味のある現実であることと思います。

そう考えると、僕たちの現実は、過去の履歴にうずまっている出来事によって突き動かされているのではないのか?、と思えてきます。

(・・・このあたりのことは、別の記事で詳しく書きたいです。。。とにかく、僕たちは現実を現実として見ているけど、よく考えて見ると、それは生の現実ってよりも、履歴のうちから規定された現実を見ているってことです。)

僕は、僕の中にある浮遊する履歴と折り合いをつけるために、不確定な現実を、あたかも確定的なものであるかのように生きようとしているのかもしれません。

「炸裂する」とかいう表現は、こうしたニュアンスのことであるのかも知れず、僕は僕の履歴のうちから、僕の履歴を僕の現実に履歴を炸裂させながら、自己表現を続けているのでしょう。。。


“愛は盲目”という表現もあるけれど、僕たちは履歴の奴隷でもあるわけだから、盲目的と思えることにも、それなりの履歴から掴み捉えた理由があるのかもしれません。

しかしこの理由は、まったく因果的なものではなく、非因果的に必然的なものだといえるのでしょう。

非因果的必然性。。。。主観的な普遍性ともいえるのかもしれません。。。

しらふのときにキチンとまとめます。。。w