絡み付く視線。

先日、朝礼でスピーチをしました。
(詳細は“考える少女。: http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/40944017.html”参照)

これまで、職場では、哲学やってるってことはあんまり人にいわないようにしてきたんです。

それは、哲学のパブリックイメージに関係あります。

フツー、哲学といえば、主義や主張を言う人や、生き方や善悪を決めたがる人といったイメージがあります。
よく、“自分だけの哲学”と表現されるように、自分で作り上げた世界像を振りかざす人のようにとらえられます。
哲学を少しでもかじると、決してそんなことはないってのは何となく理解できるんですが、公共的なイメージがそうである以上、それに逆らうのは容易ではありません。

そうしたわけで、僕も僕を規定している背景的な文化を生きる一般人であるので、“哲学”という言葉を使うときには敏感になります。

しかし、今の職場も務めて3年ちょっとたつし、職場のみんなに僕がどんな人間か、大体のイメージは根付いていると思うから、今回のスピーチでは思い切って哲学関係の話をしてみたんです。

まぁ・・・案の定・・・あんまし伝わらなかったわけですが、一人だけ、興味を持ってくれた人がいました。
その人は、大学で哲学を専攻した人です。
きちんと哲学を学んだ人です。
その人が話し掛けてくれて、今度一緒に哲学書を読むことになりました。

これまで、僕の哲学の読み方はワイルドだったんですw
きちんと体系だって学んだわけじゃないから、興味のあるところをつまみ食いしていく感じだったんです。
ある時期から、ちゃんと哲学史にそって学ばないと一人よがりなものになっちゃうってのに気づいて、教科書的な本も読むようになったんですが、一人で学んできたことに変わりありません。

つまり、僕にとって哲学は、とても個人史との結びつきが強いんです。

前回の記事(http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/41626874.html)で、思考の形式と中身の違いを指摘して、思考の中身が自分の人格的な部分と結びつくと、正しさばかり主張しだして手に負えないってことを書きました。
僕にとっての哲学は、僕自身の人格的な部分との結びつきが強いから、気をつけないと僕は自分の正しさを主張しだす可能性があるんです。

僕の履歴を他人の視線の元にさらけ出すのは勇気のいることです。
おそらくここで、僕はとても試されるでしょう。
それは、僕は僕自身の自覚する機能を保ち続けることができるかどうかです。
僕は僕自身が学んできたものと、距離をとれるかどうかです。

多分、そうなると、僕はまた新たなフェイズを探さないとならなくなります。
哲学以外でも自分を支えられるような“必要な逃げ道”を確保しないとならないでしょう。

まぁ・・・それもおそらく必要なことなんだと思います。