ヲタ不在。

先日の日曜日、僕は秋葉原に行きました。

まぁ、暑いんですが、それも仕方がないことだと耐えつつ、うろうろとお店を回りました。

わざわざ秋葉原に行ったのは、次に買うスマートフォンの実機を触りたかったからです。
候補としては、ウィルコムの03かD4、もしくはイーモバのem・oneかイーモンスターです。
いろいろお店を回って説明を受けたりしたんですが、いまいち決め手がなく、ラブクラフト全集の第6巻だけ購入して駅に戻ろうとしました。

秋葉原はやっぱり仮装大会みたいです。
いろんなコスした人がたくさんいるわけです。
もうアキバ文化は一般的に認められてしまっているので、そこにアンチなパフォーマンスなんてのはほとんど無いわけですが、それでも、必死で自己表現をしている若者は沢山います。

駅前に、メイドさん二人組がいます。

メイドさんもとに、男性が駆け寄ってきます。

もう。

それはもう、絵に書いたようにオタク的な男性です。

チェック柄のシャツにリュックをしていて、細身でメガネをかけており、髪はフツーにオタク的です。
そして、くねくねした奇妙な動きで「おまたせしましたっ!」と敬礼をします。

もう、如何にもなんです。

“コントやドラマかよ!”って突っ込みを入れたくなるほど、そのまんま、一般人がフツーに思い描くようなオタク像を現実化した姿が、この彼なんです。

ここで仮に、この彼のことを、“必要な逃げ道”と呼んでみます。

“必要な逃げ道”が良いとか悪いとか、正しいとか正しくないとか、気持ち悪いとかキモイとか、そういうことはぜんぜん関係ありません。
そんなものは相対的なものだし、人それぞれの価値評価だから、そうしたことを問うことは、あまりしたくはありません。

そうではなく、“必要な逃げ道”を見たとき僕が思ったのは、“果たして彼は何処にいるのか?”ということです。

もちろん彼はそこにいます。
しかし、だからといって彼はそこにいるのでしょうか?

僕が彼を見て受けた印象は、一般化されたオタク像です。
秋葉原オタク文化の中で思い描かれているような、抽象的なオタク像の具現化を、僕は“必要な逃げ道”に感じました。

まるで文化なんです。

目の前にいる“必要な逃げ道”は、個性化された一介の青年というより、文化に規定されている人物なんです。
“必要な逃げ道”を見ていると、まるで、抽象的な文化を見ているような気分になります。

僕たちはたくさんの背景を持っています。
ひとつの判断を下すにしても、そこにはたくさんの背景があることがわかります。
言語であり価値であり評価であり常識でありルールであり、こうしたいくつもの背景的な文化を間借りしながら、僕たちは判断を下しています。

例えば何らかの形で自己表現をしようとしたとき、こうした背景的な文化が邪魔になるときがあります。
僕は過去、曲をつくっていたときがあるんですが、そうしたときはなんとか他人の曲とかぶらないように、自分だけの曲がつくれるようにと、僕を規定している背景的な音楽文化から必死で逃走を試みます。
(まぁ・・・僕にはあんまり逃げ切る能力がなかったんで、音楽の道はあきらめたわけですが・・・w)

例えばコラージュという表現の方法があります。
すでにある文化を間借りする方法です。
しかしそこにも、すでにある文化を借りながらも何らかの形で自分自身を表現しようとする格闘の後が垣間見られ、そうしたところにコラージュの芸術性みたいなものがあるんだと思います。

しかし、“必要な逃げ道”はもはや文化そのもののようです。

もう一度確認ですが、文化と一体化してしまっている“必要な逃げ道”が、正しいとか正しくないとか、良いとか悪いとかじゃあないんです。

そうしたことではなく、なぜ彼は文化と一体化するという、自分の個性を放棄するような自己表現の方法をとらざるを得なかったのか?というところです。

・・・彼は一体何処にいるのか?。。。

もちろん、“必要な逃げ道”の生き方は“必要な逃げ道”のものだから、その外側にいるものたちに“必要な逃げ道”の生き方を変えてしまうようなことは、なかなかできないと思います。
もし、安易な気持ちで他人の人生に介入しようとしてくるような者が目の前に現れたら、僕は僕が今まで見につけたあらゆる技法を駆使して、そのものを解体させるでしょう。
そんな特権的な立場を主張することは、人にはできないと思います。
唯一できることといえば、一緒に悩むことくらいでしょう。


“必要な逃げ道”は、なんで文化と一体化してしまったのでしょうか?
彼が自分の個性を世界に炸裂させる日はやってくるのでしょうか?
そのときに、一緒に悩んでくれる人はいるんでしょうか?


・・・まぁ・・・他人の人生だから知らねーっつやー知らねーんすけど、ちょっとだけ気になります。