自分との縁。

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実存すること、つまり現実存在することを表現することは難しいけれど、とりあえず直近に読んだ「現代思想の冒険」の言葉を借りると“自分の在り様を了解しつつ、次の存在可能性をめがけること”となりそうです。

しかし、現実存在することを理解することは、とても難しいと思います。

ヤスパーズ的なニュアンスですが、実存は、その人の限界状態の中で出会われるようです。

それは確かにその通りで、日常の中を生きているうえでは、実存を知る理由がこれっぽっちも見当たりません。
それこそ、死と直面するような限界状態にでもさらされないと、“自分の在り様”を知ろうとする動機はなかなか生まれません。

そうした限界状況を良く教えてくれるのが、病気になったときです。

単純に、風邪を引いたときでも良いんです。

それまでの日常が一変して、トイレに行くことさえ億劫になります。

そうした日常が転変した場面では、“はて?自分はこれまでどのような生活をしていたのだろうか?”と、自分の在り様を振り返るきっかけが得られます。

しかし危機的な限界状態の乗り越え方は、人によってさまざまなようです。

一つは、上で見せたような、実存が開明され、それまでの生き方を了解しつつ、次の生き方を模索していく道。

もう一つは、世界像と強く癒合する道です。

僕の父親は、若い頃大病をしました。

まさしく死と直面した限界状態です。

瀕死の危機です。

そして、この危機を乗り越えるために、後者の方法を取りました。

強く社会と融合する道を選んだのです。

つまり、社会的に良しとされているルールと自分を同一化することで、この危機を乗り越えたのです。

自分の個性を消して、辛いことは我慢して、会社から見捨てられないように、病気が再発しても会社がかばってくれるように、社会の信者になることで、この危機を脱しました。

結果は大成功です。
僕も安楽に暮らすことが出来、大学も出て、その後専門学校に入ることも出来、職に就くことも出来ました。
それはそれで、立派な対処の技能です。

別の方の例です。

その方も瀕死の危機に立たされました。

その方の乗り越え方は、知性と癒合するという方法です。

その知性とは、科学的なものでも宗教的なものでもかまいません。

この世の向こうに、知性で形作られた真実の王国を作り上げ、その王国に自分を染め上げることで危機を脱しようとしたのです。

恐らくそれも、立派な対処の技能です。

どうにもならない現実をドライブするためのスキルの一つだといえます。

注意しなければいけないのは、実存それ自体がなにか真実の人間の在り様で、それ以外は嘘の在り様だ、とはいえないということです。

なぜなら、僕の父親は実存開明的な方法は取らなかったけれど、立派に生きて、社会をドライブすることが出来たからです。
そうした父親の生き様を否定することは僕にはできません。

さて、このように見ると、実存を知ることは、ほとんど偶然みたいな気がします。

その人が実存を知りたいと思うかどうかは、その人次第。

その人が実存との縁があるのならば、実存を知るだろうし、そうでなかったら、別の道(客観的な真を求めるような道)を歩むでしょう。

たしか、大学時代読んだ心理の本に、自分のコンプレックスと対峙したくない人に、無理にコンプレックスと対峙するように促そうとしたって、そんなのは大きなお世話だって書いてあったのが思い出されます。

実存と出会うのも一つの縁なんでしょう。

僕らは確率の奴隷なのかも知れません。