少年ヤング?

昔少年だった彼は死ぬことを命じられました。




例のあの事件の判決についての報道が飛び交っています。

元少年に死刑判決”・・・みたいです。

僕の中にある常識的な倫理観は、その判決は真っ当なものだと告げているわけですが、それはそれとして、なんだか報道の中では、“元少年”と言う言葉があたかも最初からあったかのように使われています。

TVのなかで「被告の元少年が・・・」と語られるたびに、“元ってことは、いまは違うってことだよなぁ。。。27歳みたいだし、現青年ってことだよなぁ。。。何で“元少年”っていう表現を使うのだろうか?”という思いに駆られます。

・・・思えば僕も“元少年”だったわけだし、よく考えれば青年以上の男性はすべて“元少年”になるわけだ。。。

そんなふうな、ちょっと類化されている表現をメディアが自然と使ってしまうっていうのは、そこには何らかの意味があるんじゃないでしょうか?


それは、“元少年”だった、我々少年以上の男性が抱いている“少年像”にまつわる意味です。


彼はどうやら、「甘えたい気持ちで抱きつき、反撃され押さえつけたら動かなくなった」そうです。

この供述の真偽はさておき、注目したいのはその意味です。

思えば、少年以上の男性たちの立場は辛い。

社会に出ると、なかなか男性性を発揮できない。
“出る杭は打たれる”じゃないですが、うまく社会をドライブしいていくためには、そこそこ個性もそぎ落として、不用意な男性性は覆い隠さなければならない。
うまく会社の中で立ち振る回らなければならないし、必要以上に個性を発揮すると、つまはじき物にされちゃいます。

しかし、家族の中での役割は男性に男性性を求めます。

家族の中ではリーダーシップを発揮し、家族自体がうまく社会をドライブできるように舵取りをしなければならない。

しかし、男性には男性性を発揮する場面がなかなかありません。

社会は男性性をそぎ落とすことを要求するが、家族のシステムは男性性を要求してきます。。。

・・・これじゃあ板ばさみだ。。。

いっそ、“甘えたい気持ちで抱きつき”たい気分に駆られてしまう。。。元少年のように。

しかし、少年以上の男性の中に残っているわずかな男性性は、そのことを許しません。

甘えたい気持ちもあるけど、それをするとその人の中にわずかに残っている男性性が傷ついてしまう。

男性性が傷ついちゃうと、そのもやもや感は不合理な怒りとして“反撃”に転じる可能性も大いにあるんじゃないでしょうか。

なんだか、社会は理が通らない状況っぽいです。

元少年”の行動は確かに不自然にして不合理ですし、死刑は仕方ないのかもしれません。

しかし、“元少年”という類化された呼称の中には、現在を生きている少年以上の男性が感じている、不自然にして不合理なニュアンスが込められているのかもしれません。