融合。

映画「クローバーフィールド」は、すべてビデオカメラで撮られた主観映像で、手ブレもしまくりなんで、乗り物酔いをする人が結構多いらしいです。

たとえば、一人称視点のアクションシューティングゲームとかでも、乗り物酔いをする人もいます。
古くは「ドゥーム」や「アンリアル」みたいなゲームです。
SSの「バロッグ」や「エネミーゼロ」も一人称視点で面白かったんですが、気分が悪くなるからできないって人が僕の周りにも結構いました。

で。

クローバーフィールド」をみていてふと思ったんですが、この乗り物酔いには意味があるじゃないでしょうか?
それは、「融合」っていう言葉をキーにすると表現できそうです。

僕たちは、世界と融合することで生きています。

なぜ、融合することで生きていると言えるのかというと、僕たちはこの世に生まれ出た時点で、既に世界を与えられているからです。
呼吸をして体内に侵入してくる酸素や、皮膚に触れる空気や、そうした世界が生まれ出た時点で既に与えられています。
もっといえば、既に母親の体内にいる時点で、羊水という既に与えられた世界を生きています。

成長していくと徐々に自己意識が生まれていくものだったりして、自分の鳴き声と母親の語りかけてくる声の違いや、自分の手足は自分でコントロールできるけど、人の手足は自分でコントロールできなかったりと、もろもろの違和感のなかから、自分と世界との融合に亀裂が走り、自分と他人、自分と世界との区別が生まれてきちゃったりします。

で。

青年期くらいになると、世界が実体のない意味の総体、つまり“社会”とか“文化”とか、そうしたものに包まれていることを知ります。
一概にはいえないんですが、あえて乱暴に表現すると、“社会”とか“文化”とかは、思慮深さを封じ込めます。
つまり、自分で自分に何が起こっていて、どう考えて、どんな判断を下すのか?ってことを、“社会”とか“文化”は阻害する傾向にあります。
なぜ思慮を阻害する傾向にあるのかというと、“社会”とか“文化”を認めないと、生き難いからです。
どんな時代でもアウトサイダーは阻害されるし、除外されてしまいます。

で。

ここで再び「融合」が始まります。

それは、せっかく生まれた思慮深さを隠して、世界を生き抜くための、ある意味対処技能的な「融合」です。
(・・・この“対処技能的な「融合」”が健康なものなのか不健康なものなのかは、僕にはなんともいえませんが・・・。)
つまり、世界からつまはじきにされないために“社会”とか“文化”と「融合」するのです。

世の中で流行している礼儀正しさと「融合」するのです。

その流行は、名刺の出し方だったり、挨拶のし方だったり、卑屈な笑みの浮かべ方だったり、時代と地域によって様々ですが、生き延びるためにそうした“社会”とか“文化”に「融合」するのです。

たとえば、ここんところ資本主義だったりして、いかに“社会”や“文化”に適切に融合して生きたいように生きるか?がブームになっています。
そうなると、世界との融合からの亀裂から始まった、自分と世界と距離をおいて、自分で考えてみるという思慮深さの意味合いが少し変化してきます。
思慮深さの意味が、自分で考えるということから、“社会”とか“文化”の中で既に与えられている価値観を、いかに都合よく利用するか?ということに変わってしまいます。

それはそれで大切な生き抜く対処技能ですし、全然問題ないし、必要なことなんです・・・“社会”や“文化”との融合は必要なことなんです・・・が・・・。

なんつーか、思慮深さを抑え込んでいくことは無理っぽいですwww

たとえば、社会性に長けた徳の高い両親の間に生まれた子供が非行に走ったり、ひきこもっちゃったり、病気になっちゃったりするケースはよくあります。
そうした場合の子供たちは、なんだか両親のあまりにも不自然な融合状態を解体するかのような、思慮深い行動に見えます。
それは、倫理的道徳的な思慮深さというより、既に与えられてしまっているこの世に亀裂を入れるための、ほとんど本能的な思慮深さなんだと思います。
非行やひきこもりや病気は、不幸な出来事かもしれませんが、それは同時に、子供が自分と母親の違いを確認するために鳴き喚くような、自己意識を芽生えさせるような思慮深さなんだと思います。

だから、まぁ、なんつーか、対処技能として“社会”や“文化”と融合しちゃおうとしても、それはちょっと無視のいい話で、自分で考える思慮深さを阻害すると、あんまりいい感じにはならないみたいです。

で。

ここでやっと乗り物酔いの話ですwww

クローバーフィールド」を見ながらふとおもったのは、主観映像をみて乗り物酔いを感じるっていうのは、ある意味、世界と融合しちゃってるってことなんじゃないか?ってことです。
映像は映像だし、映画は映画でしかないんですが、そうした与えられた世界と自分との間に亀裂が入らなくなってしまった状態ってのが、映像をみての乗り物酔いって表現できるのかもしれません・・・ちょっと強引すぎるかもしれませんが、少なくとも、僕に乗り物酔いを訴えてきた友人は、ほとんど自分で考えることを放棄した方だったんで、なんか、こんなことを思いました。

さて。

ここで。

大オチなんですが。

僕も「クローバーフィールド」をみてて具合が悪くなりましたwww

まぁ・・・僕も“社会”や“文化”と融合しようとしている人間ですし・・・いや・・・まぁ・・・w