理念萌え。

・・・こんな言葉は成立しない・・・w


理念が嫌いです。
なぜなら、理念は現実をねじ曲げるからです。
理念を信仰すると、全く罪悪感無しに他者の実存を規制する“善意の保護者”が生まれるからです。
保護者たちは、その人の自分で考えて自分で行動して自分で成長する可能性を奪い取ってしまうことがあります。

そうしたわけで、予定調和的な理念を振りかざす人に出会ったら、礼儀正しく論理と現象学の技法を使って、その理念を解体させます。
でも、やりすぎると嫌われちゃうし、嫌われるのはイヤだから、そういうことはあんまししませんw

でも、先日、「ありがとー、理念!」って思えるような“理念萌え。”な出来事がありました。


僕の職場は女性が多いです。

だからってわけじゃないと思うけど、好き嫌いが激しかったりするんです。
容易に行動と人格とを結びつけて判断してしまう人が多いんです。

例えば、仕事上の判断は、決して情感的な判断とは言えません。
その人に与えられている立場や役割から、ちょっと冷たい判断をしなければならないときもあります。
そうしたとき、その判断は仕事上やむなくした判断だから、その判断イコールその人の人格的行為とはいえません。
でも、(多分どこの職場でもそうかもしれませんが)僕の職場では、仕事上の判断イコール人格的行為と判断してしまう人が多く、あんまり議論が成立しません。。。そんな場面に出くわしたら、僕は逃げちゃいますw

で、先日のことなんですが、職場でトラブルが発生しました。
早急に対処しなければならず、各部署の職員が集まります。

で、その時、うまくトラブルに対処できたんです。

その時、それぞれ人が、それぞれの部署の持つ仕事の理念的な部分を、それぞれの人格的な部分から遊離させて、それぞれの人を把握することができていました。
だからこそ、それぞれの人がそれぞれの部署の役割に従った判断を尊重しつつ、解決に向けて議論ができたのです。

理念があることを知ることで、人格から距離をおいて判断を下すことが可能になります。

理念は確かに現実を歪めてしまうものかも知れませんが、時として、その行為を、人格的なものから分断させてくれるような、そんな機能があるのかも知れません。

そうしたわけで、仕事をするときは理念的にするのが良いのかもしれません。
しかし、そうしたときも、常に自分の持つ理念が現実から遊離していないか確認するような随伴意識を持つことも必要です。

とりあえず、「ありがとー、理念!」w。