床夢。

ちょっとした幸せを感じる出来事は結構あって、今日、出勤時にスマート運転していたら、ちびっ子に手を振られました^^


ああいうのって、ちょっとうれしいです。


きっとこの子どもは、科学とか未来とかSFとかに興味を持って、友達からは博士とか、未来派野郎とかいったかっこいいあだ名を付けられて、うれしがったり疎外感を感じたりするんだろうなぁ。

でも、数学とかは苦手だから、理数系の学部へは進めず、大学に入ったら、キワモノSFとかを読むんだろうなぁ。

で、結局文系だから営業職とかに就いちゃったりして、取引先の要望と上司の司令の間に二律背反的なもどかしさを感じたりして、一息ついたときに、「振り返り見て自分の人生は一体なんだったのだろうか?幼い日に見た未来の車に乗った人物は、若干憂鬱そうな顔をしながらも、遠くに走り去っていった。しかし、今の私は、取引先に脅え、上司に脅え、自分で世界を考え、自分で世界に意味を与えることを忘れてしまった。そういえば、SF小説に没頭しているときは、私の現実は次々と変容していき、自分の世界の内を生きることが出来たものだ。そうだ。そのように何か現実とは別の世界の見方を身にまとうことに、私はこれからの在り方を見いだしてい
けるのではないだろうか?きっとそうに違いない。世界を味わい深く生きよう。世界にとって心地よい良い行いを出来るような、そんな世界像を思い描こう。」とか思っちゃうんだろうなぁ。

そうして、倫理的で道徳的な団体に所属して、世のため人のために生きることにして、辛い営業職も、この団体の世界像を信じることで、乗り切ろうとしてしまうんだろうなぁ。

そうして、たとえ身内に不幸があっても、自分が絶望であっても、倫理的で道徳的な団体の世界像に支えられて、有意義に生きていくのだろうなぁ。

そうして、年老いて、まだ認知機能が衰えていないある時期、自分のこれまでを振り返り見て、“私は未来の車に乗ることが出来たのだろうか?”と、思案にくれるのだろうなぁ。

そうして、「私は、良い世界や悪い世界を思い描くことにとらわれていたのではないのだろうか?」と思う瞬間もあるだろうが、その思いを認めてしまうと、これまでの辛い自分を認めてしまうので、認めることは拒否するのだろうなぁ。

そうして、世界像に魅了されている父親の姿を見て、その子供は、「私の父親は現実を生きているとは言いがたい。現実はもっと混沌としており、相対的なものだ。なのに、私の父親は混沌とお付き合いをすることを忘れてしまったのだ。」と思うようになり、40歳過ぎまでストリートミュージシャンとしてその日暮らしをするのだろうなぁ。

でも結局は、真っ当な人生を送ることとなるのだろうなぁ。

スマートに手を振ったちびっ子に、こうした可能的な世界を思い描いたけど、それは確率の一つだから、そうならない可能性もあるので、とりあえず事故らないで職場について良かったですw

寝ますw