偏向壁。

向きを変える壁があります。。。




私たちは、直接的な現実をそっくりそのまま言い当てるという態度を貫き通す限りにおいて、次の現実に行き当たります。

それは、私たちは、私自身を乗り越え出て私自身や他者を把握することができないという現実です。

この現実から始めてみて、いくつかの世界像にたどり着くことは可能です。
例えば、観念論や存在論といった、世界の見方を持つことは可能です。

しかし、現実のみを言い当ててみると、自分の外側から自分や他者を把握することは、やりようがないのです。
私たちは、私の外側に立つ手立てを持っていません。

現実だけ見つめると、人は孤独です。
まさしく、人間存在は“stand alone complex”と表現できそうです。


さて、日常生活を送っていると、なかなかこの現実にたどり着けません。
なぜなら、私たちは共通の世界像を持っていると確信しているからです。
社会の仕組みや株価の相場や、流行や文化や、倫理観や道徳観や、この画面に表示されている文字といった、共通の世界の見方を利用しながら生きているので、自分自身がstand aloneであることになかなか気づけません。

それはそれで、ぜんぜん悪いことでもないし、不幸なことでもないし、まったく普通のことです。
stand aloneを自覚することが本当のより良い生き方、幸せな生き方で、知らないで生きることが偽者の不幸な生き方であるとはいえません。
現実は、すでに起こってしまっている以上、“そうでしかない”という現実があります。

しかし、stand aloneが明るみに出てしまう場面が、人にはあります。

例えば、風邪をひいたとき、外に出るのも億劫で家の中で静養するしかないとき、人は日常的な世界像から少しだけ引き離されます。
もし、自分の両足が無くなってしまったら、すぐそこにある本棚に行くことさえも、知恵を働かせて、いくつもの障害を乗り越えなければなりません。
もし、電車に乗っているときにどうしようもない恐怖に襲われて電車に乗れなくなってしまったら、その人は“電車に乗って移動する”という日常性から引き離されます。
幻聴や幻覚のように、客観的に実在しないものの体験になると、その経験はその人の世界の内でしか了解できません。


いくつもの危機的な状況は、その人に否応なしにstand aloneな状況、つまり、耐え難い孤独な状況を引き寄せます。


そして、こうした危機的な状況と対峙したとき、どうやって危機を乗り越えるかが課題となります。

いろんな乗り越え方があると思いますが、一つには、“反省をしてみる”、という方法が挙げられます。
“反省する”というと、振り返って自分の欠点を見つけ出すというニュアンスになりがちですが、そうではなく、単純に自分の身に降りかかった出来事を思い返してみて、自分にとって腑に落ちるような物語の形で言い当てていくというやり方です。
危機的な状況が自分にとってどんな意味を持っているのか、意味のつながりを追いかけていくやり方です。

もう一つは、“自分の危機を他者に語ってみる”、という方法が挙げられます。
自分と同じような危機を体験している人たちに対して自己表現をすることで、共感や自己肯定感を得ていくという方法です。

このように、単純な“私たちは自分の外側に抜け出ることができない”という原理に従うと、自分自身の内側に接近していく方法、つまり内在的方法と、超越(他者)の中に自分を開示する方法、つまり超越的方法とを考えることができます。


さて、壁があります。
私たちは、向きを変える壁を持っています。
とりあえず、偏向壁と呼んでみます。
成長していく中で鍛えられる、形式的な態度が壁のことです。
普通それは、“社会性”と呼ばれます。
上司と接するときと仲間と接するときは、態度が違います。
上司と会話をするときは、社会的な礼儀をわきまえて、ちょっと堅苦しい口調になります。
“ちょっと堅苦しい口調”という壁を使って接しています。
仲間と接するときは、自分の感情をさらしたり、隠したりと、壁を断衝材のように使いながら接しています。


この、偏向壁を引き合いに出すと、内在的方法と超越的方法の健康的な部分と不健康な部分がわかります。

内在的な方法は、“自分にとって”なにが腑に落ちるかを探っていくので、偏向壁は鍛えられます。
世界が自分にとってどんな意味を持っているのか、自分から基付けていくので、世界は自分にとっての意味を持つことになります。
しかし、それは同時に、独我の危険性を持ちます。
つまり、独りよがりになってしまう危険性を持つということです。

超越的な方法は、コムニタス(文化共同体)を生み出します。
そうした場所では、特別偏向壁を高く持たなくても、共感や了解を得ることができます。
しかし、それは同時に、個が他者の中に埋もれてしまうという危険性を持ちます。
気をつけないと、“自分にとっての世界”が薄くなってしまうという危険性です。



さて、なんでこんなことを書いているのかというと、今日の大学時代の友人との飲み会で、ちょっと心配になってしまう人に出会ったからです。

その人は、ちょっとした危機的な状況にあります。

そしてその人は、超越的な方法でストレスを逃がすのが得意です。
ですから、とてもタフで、仕事もできます。
しかしお酒を飲みだすと、偏向壁がだんだんと薄くなって、他者と癒合してしまうんです。
まるで自分自身の固が無くなってしまったかのように、その場の“間(雰囲気とか感じとか)”に癒合してしまうんです。
それはそれでよいんですが、この人は自分自身の偏向壁を鍛えなければならない場面(超越的方法が役に立たなくなった場面)に出会ったときに、どうやってそれを乗り越えていくのだろうか?と、少し心配になりました。

・・・まぁ、余計なお世話ですよねw

その人がどんな成長を遂げるかなんて、結局はその人次第ですし、僕にできることといったら、友人として人間関係を続けていくことくらいですし。

・・・現実は、やっぱりランダムなんだよなぁ。