群青は辺獄。

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前提
イカーはスマートです。


本文
昨日、車で職場から帰ってくるときに、前を走っていた車はスマートでした。

相手はダークブルーのスマートK。
車の後ろには、架空の動物たちが微笑んでいます。
捏造された彼岸の帝国、○ィ○ニーのキャラクターを車に詰め込んで、スマートKは快走しています。

スマートと列をなして走行するのは楽しいので、僕もぴったり後をついていきました。

数Km一緒に走って、幸福のスマートKはコンビニに入ってしまいました。
バックミラーを見ると、スマートKに乗車していた若い男女が、こちらに向かって手を振っています。
僕はなんだかうれしくなって、手を振り返しました。


この世には“おしまい車”と呼ばれる種類の車があります。


その車は、それ以上でもそれ以下でもなく、絶対ゼロの定点“ここ”です。
そこから先には行けず、そこから後にも行けません。
この世の到達点である、“おしまい”にある車があるんです。

・・・スマートはおしまい車の一種類です。
たとえば僕たちが思い描く車像の中から、その車像を次々と変容させて行き、車であることを規定している共通点を取り出します。
余計な個性は次々と削ぎ落とし、そのものが車であるために必要なもののみで作成された車を思い描きます。
・・・それがスマートの類です。
スマートはそれ以上にもそれ以下にもならない、無個性な類です。
でも、平均的な日常から眺めると、スマートは個性的です。
つまり、個性を削ぎ落としてみたら、結果として個性が残ってしまった、これがスマートの特殊性です。

そうしたわけで、一見するととても個性的な車に見えますが、スマートは無個性の際、おしまいにある車なんです。

そして、こうしたイデアチオン(理念視)を経ると、スマートは面白い。

この世が硬化してしまってどうしようもなくなり、パラレルにありうる全可能的世界の諸可能性に自分を投げ入れることができなくなってしまったら、“おしまい車”スマート類に乗りましょう。
行き着くところは、なにもない諦念の終点かもしれないが、そこには決して類化されない特殊性がある。

幸福のスマートKに乗っていた若い男女は、そうしたダークブルーの辺獄に身を置いている、“おしまい”かつ“r特殊性”の男女なのです。

そして、全可能的な辺獄からは、ランダムなゆらぎ性が再会されます。