こんなこともあろーかと。


今日。
岸和田博士になりたくなった。
以下がそのときの思考の流れ。



あー。岸和田博士になりたいなー。なれるかなー。岸和田博士は科学者だから、まず、そもそも「科学者とはなんであるか?」というところから始めなければな らないだろうな。科学者とは、あの歌にもあるように、「科学する者」のことだろうな。ってことは、「科学者」とは「科学」と「者」の二つから成り立っているのだろうな。「科学」っつーのは実的に中身があるものというよりは、人が此の世にとるべき一つの態度ということができるだろうな。目の前にある もののように手でつかめるようなものではなく、そうした実体がない、人が此の世にとる一つの態度の類型として「科学」という態度がある、ということだ。では、その科学という態度はどんな態度だろうか?世の中にはいろんな科学の種類があるけど、それらに共通するものとして、ふたつの契機がみてとれま す。ひとつめは「再現可能性」、ふたつめは「推論可能性」です。ひとつめの契機とは、「いつ、どんなときでも、誰がやっても同じ結論が出るような可能性である」ということです。科学が、その人の心理的なありようによってその都度かわってしまったらうまくない。だから、「再現可能性」は大切な契機で す。そして、ふたつめは「推論可能性」です。この契機は、ひとつめの契機をもとに、まだ起こってない事実を推論して体系づけることです。たとえば原発や宇宙船やなんか宇宙の観測とかで、「こうなんじゃないかなー」っつーのが実際に証明されたりします。こうしたことが「推論可能性」と表現できるで しょう。そして、科学の大切なふたつの契機を貫いている、もっとも大切な根本命題があります。それは「普遍妥当性を目指す」という命題です。再現可能であり推論可能ということは、「いつでもどこでも妥当しえて、それは時間的にまだ訪れない未来に関しても同様」ということであり、無時間的な普遍的な妥 当性をもったものだといえます。さて、この「普遍妥当性」という概念んですが、この態度っつーのは、哲学の態度でもあります。そもそも、近代科学の祖であるニュートンは、自然科学ではなく、自然哲学をやっていたのであり、いろいろあって岸和田博士になるためには自然についての哲学をすればいいん だ!!!あーよかった。で。「科学者」の「者」のほうの分析をすればより岸和田博士になれるのではないだろうか?では、「者」とはなんだろうか?「科学者」とは「科学する者」であるということは、「者」とは「人間」のことですね。岸和田博士になるためには、「人間とはなんであるか?」ということを 把握しなければならないのだ。さっきまでの分析で、科学とは哲学的態度の延長だということが明晰にして判明に証明されました。なので、「人間」にに対しても、「人間とはなんであるか?」という哲学的態度をもって挑まなければなりません。ここでは「態度」が問題になっているから、人間の身体の構造が 客観的にどうなっているか?という分析よりも、「なぜ態度があるのか?」という視点が必要になってきます。人が出来事に対して様々な態度を取れるということは、「出来事を出来事として経験することができている」という前提が必要です。そして、この前提とは、「私たちは様々な態度を取る以前に出来事 を経験的に把握している」ということであり、この「把握」の構成を探ることが、人が此の世に取りうる態度を探るために必要なことであり、それは意識経験の分析ということです。岸和田博士になるためには、意識経験の分析をする必要があるのだ。意識の成り立ちを分析するためには、なにか大げさなリロン を持ち出す必要はありません。その反省のはじめの一歩は、私たちの意識の目の前に立ち現れている現実、直接的な現実、つまり、今目の前に見えていて、聞こえていて、感じられている直接的な現実がどんな成り立ちをしているのか?、そこから始めるということです。では、視点を俯瞰的客観的領野から、私 たちが目の前に見えていて直接的に見て触れることができる現実に移してみて、その現実がどんな成り立ちをしているのか分析してみましょう。。。

・・・なんだかよくわかんなくなってきたからもういいやw岸和田博士になるためには意識分析が必要ってことが結論ということで、なんだか岸和田博士になれそうなので、別の博士の歌を聴くことにしよう。「李」だ!ポンチャックだ!李博士の歌を聴くんだ!! http://t.co/9d1WU0jM