僕らのお殿様。

ひょうきん族よりドリフが好きでした。

地元のお祭りが土曜日と重なったときは、おみこしを担ぐか全員集合を見るかとても悩んだものです。
(結局具合悪いってことにして、家に帰ってドリフを見たw)

で。

やっぱ。

ケンはすごいなぁ。

面白いなぁ。

小さい頃は、父親がケンだったらどんなに良かったことかと思ったものです。

ドリフが終わった後も、加トちゃんケンちゃんごきげんテレビとか面白かったし、スイカ人間はちょっと怖かったw

で。

ケンのギャグに「だっふんだぁ」というものがある。
このギャグは、コントを閉めるときに、おかしな表情とおかしな口調でケンが言う言葉である。

おもうに。

だっふんだぁっていうのは、“脱糞するほどの面白さがある”、ということを表現しているのではないのだろうか?
ひとつのコントが終わって、ケン自らが、自らのコントがおもしろかったことを視聴者に特徴的に印象付けるために、“脱糞するほど面白いのだ!”、つまり、「だっふんだぁ」と叫ぶのだ。

だ。

“だ。”と表現したが、あまり確信がないので“だろう。”のほうが適切だろう。

だがしかし。

僕も「だっふんだぁ」と叫びたくなるときもあるものだ。

だがしかし。

僕はコントはしない。

たしかに、おかしな行動や不穏な動きはするかもしれないが、僕は精一杯日常を生きている一介の生活者に過ぎないので、おかしな表情とおかしな口調で「だっふんだぁ」ということはないであろう。

だがしかし。

僕も「だっふんだぁ」と叫びたくなるときもある。

それは。

この世界に薄っすらと諦めの念のようなものを感じたときなのです。

自分と他人は決して架橋しないことを身に染みて感じてしまったときや、この世の理がまるで無視されたときや、理不尽な暴力や理不尽な不幸を被ってしまったときや、道ではぐれた子供がスープをもらい損ねてしまったときや子供にスープをあげれなかったときや、定立化してしまった価値評価が僕を規定しようと襲いかかってきたり、またはそうした価値評価に規定されてしまっている人をみたときや、そうした人が善意の保護者のように高級な倫理や道徳を説きだしているときや・・・。。。

そうしたときは、“脱糞するほどの思いだ!”という思いをこめて、眉間に皺を寄せつつ「だっふんだぁ」と叫びだしたくなるものなのです。

だがしかし。

この言葉の背後には僕らのケンがいる。
あのおかしな表情とおかしな口調で自らの面白さを叫びだすケンがいる。

だから、大丈夫だ。
それは絶望的な諦念感なのではなく、ケンに祝福された肯定すべき諦念感だから、どこにも問題はない。

そうしたわけで、僕が突然大きな声で「だっふんだぁ」と言い出しても、大目に見てください。




・・・いや・・・ひょっとしたら・・・僕らのケンにもこうした諦念の思いのようなものがあったのかもしれない・・・いや・・・ないか・・・まぁ・・・どっちでもいいや・・・なんか眠いし・・・w